25年前ですが、外務I種の面接の応答の概要を記します。
詳しくは覚えていないのですが、書ける範囲で再現します。
(第1次面接、15分程度、面接官は人事課長をはじめ10人くらいいる)
<何といっても絶対の第一志望であるので、緊張しました。しかし、とにかく面接を受験できることがうれしかった。落ちてもいい土産話になると思ったので、自然と「ニコニコ」していた。当日は風邪気味でやや体調不良だったこととも相まって、適度にリラックスしていたように見えたのかもしれません。今にして思えば人の運命なんてわからないものです。>
Q「高校時代に京大の高坂教授の本に興味があったのに、なぜ東大に行ったのか。」
A「東大の教養学部で国際関係論を専門に勉強したかったから。」
(相手はふんふんとうなずいていた)。
(※本人は本心で答えている。しかし、客観的に見てもなかなかの答えであったような感じ)。
Q「関西人はしゃべりが速いが、君はなんでしゃべりが遅いのか。」
A「母親が京都なので、しゃべりの遅い京都の影響が出ている。」
(※これもとっさに答えた。その割にはなかなかの答えだったかもしれません。今や信じてもらえませんが、早口になったのは講師になってからです)。
Q「君は髪型が変だ((注)当時は、ぼっちゃん刈りを短くしたような感じだった、ケビンコスナーのボディガードみたいな髪型)。」
A「床屋で失敗されたが、自分ではなかなかと思ったので、そのままにしておいた。」
(※典型的な「対応を見る」質問。答えの中身は聞いていない。当時はそれを知る由もありません)。
Q「時事のところで、物価の下落傾向など、おばさんっぽいことが書いてあるが。」
A「経済の理論と普段のものの見方を一致させるように心がけている。(と答えた気がする)」
(※やや圧迫気味かもしれないが、攻める感じではなかった。言葉にするとややどぎついが)。
Q「サークルで印象に残った出来事は」
A「アメリカ人をガイドしたときに、地蔵が祀られているところで早くに子を亡くしてそれを思い出して、そのアメリカ人が泣き出してしまったが、『何も気にしないでくれ、おまえのガイドはよかった』と言われた。アメリカ人は自分で決めたルールに私情を持ち込まないんだな、と納得した。」
(※なんでこの話をしたのか、詳しくは思い出せません。しかし相手はふんふん聞いていた)。
<言葉にするときつい質問が多かったが、雰囲気はとても和やかだった。自己PRも志望動機もかけらも聞かれなかったのはよく覚えている。答えの準備できない質問を矢継ぎ早にして、こちらがどういう対応をするのかを見ることが相手の狙いだったように感じました。>
(第2次面接、5分程度、面接官は人事課長を含め3人)
<相手の人数は少ないものの静寂な感じがかえって不気味。2次面接の方が圧迫感を感じた。>
Q「ほんとに外務省に来るのか、他は考えていないのか」
A「民間も通産省も回ったが、外務省が第一志望だ」
Q「なに、通産にも呼ばれているのか(相手はびっくりしている)、ほんとにうちに来るのか」
A「もちろんです、第一志望は外務省です」
(※文章にすると意思確認みたいなものかもしれないが、当時は相当の受験生に同じ質問をしたらしい。通産は事実上切られていたのだが、「物は言いようだな」と今にして思います。
通産に呼ばれているというのは客観的にはウソである。しかし、一応いい線までには行っていたと思うので、全部ウソというわけではありません。ウソはつくべきではありませんが、面接では自分の弁護人は自分しかいません。不利にならない範囲でうまく真実とウソのボーダーラインのあたりのことが面接では言えるように心がけたいです。「ウソも方便」「ウソから出たまこと」というありがたい言葉があるが、まさにその通りであると思います)。
前にも書いた通り、面接の準備でB5の紙で50枚くらい自己分析をしましたが、その紙に書いたことはほとんど聞かれませんでした。ただ敢えて言いますが、それでも準備はして下さい。
自分を見つめ直す作業は必要です。
私は面接の日は風邪を引いてました。体調管理失格です。しかし、引いてしまったものは仕方ないので、そこでネガティブに考えないように。「風邪を引いた方が、かえって落ち着く」とかポジティブに考えて下さい。
【中島講師 プロフィール】
94年7月外務I種最終合格。国家I種経済職も1次合格していたが、外務I種合格により辞退。
外務省は4年勤務、アラビア語研修を命ぜられ、中近東第1課、エジプト大使館に勤務。諸事情により任期途中で日本に戻り人事課等に勤務。
2001年より公務員試験講師。延べ2400回の授業、24000人の学生に講義。
主な著作:「受験ジャーナル直前対策ブック 暗記科目の語呂合わせカード」、「語呂合わせで急所をチェック 公務員試験」(文芸社)